父親からの挨拶
雄一を救う会を立上げて頂きました事を心より感謝申しあげます。
雄一は昭和58年7月23日に母親の実家である和歌山で宮薗家の長男として誕生しました。
雄一が2歳になった時、母親は和歌山医大に入院し、約5ヶ月の入院生活で
28歳という若さで、うっ血型心筋症と言う心臓病で他界しました。
母親が入院中は福岡県飯塚市に住む祖父母に雄一と2歳上の姉を預け、父親の私は妻の病気見舞いで毎週奈良県橿原市(当時の新居)から和歌山医大まで病気見舞いの日々を送っていました。
母親が他界し父親の私も、会社を辞め子供達の元に帰る決意でしたが、会社の配慮で九州支店に転勤となり、子供達と祖父母と一諸に飯塚で生活する事が出来るようになりました。
飯塚市で22年間、家族が健康にも恵まれ何不自由無い家庭生活を送っていました。
しかし平成20年3月末に雄一が体調を崩し自宅で療養していましたが、4月4日夜9時頃に突然「息が出来ない、心臓が苦しい、救急車を呼んでくれ」と叫び、姉を救急車に同行させ飯塚病院の緊急外来に搬送し治療を行いました。姉は雄一が集中治療室に移されたのを確認し、朝4時頃帰宅し居間で寝ていた姉を8時頃、祖母が起こそうと声を掛けたが「ううううう」と言う喚き声の反応しか無く、慌てて救急車を呼び、ご近所に声を掛け、雄一と同じ病院に搬送された姉は、心臓病による脳梗塞と診断され子供2人が9時間の間に同じ集中治療室のべットで横たわっている姿を見て、頭の中が真白に成り、現実を受け入れる事がとても出来ませんでした。
身体の力が吸い取られる脱力感の中、「この子供達を助けるため、父親の私がしっかりしなくてどうする」自分を奮い起たせ、毎日仕事帰りに子供達の病気見舞いに通う日々が続きました。入院2ヶ月が過ぎ姉は北九州のリハビリセンター病院に転院し、その3日後に心臓移植しか助かる見込が無いと医者に先刻された雄一は九州大学病院に転院しました。
母親が亡くなった時代と違い医学は数段に進歩し、人工心臓という補助装置を装着する事で、延命治療が出来るようになり、その待機期間にドナーが現れ移植治療という当時としては考えられない医療技術の進歩です。しかし日本では心臓移植手術が年間数例しか実施されず、海外との移植実積とは雲泥の差が有ります。何としても雄一を救いたいのです。
どうかご支援して下さる皆様のお力添えをお願いします。
宮薗 幸一郎